消える心1






「ここか」

黒のコートがなびく。
丑三つ時、冷たい夜風に肌を刺されながら小さな建物の前にバクラは立っていた。
灯りの確認できない、看板の一つもない建物を訝しげに見上げる。







インターネット上で見かけた小さな噂。
即効性と持続性の高い違法媚薬を破格の値段で販売している店がある、という内容で。
それもこの街の近くというもので、こりゃまた信憑性のない噂なこったとバクラは呆れながらマウスのホイールを動かした。
幾つかの書き込みを暇つぶしに読み流していると、一枚の写真が載せられていた。
それを見たバクラの指がぴたりと止まった。



183:名無しさん:12:39:04:21 ID:66Fs7uGQy

>>104
嘘じゃねえよおまいらの為に買ってきてやったぞほらつ□
これでSEX三昧www




短い文字と共に貼り付けられていた画像は、投稿者が買ってきたと豪語するその店の薬の瓶と紙袋だった。
童貞乙、釣り宣言マダー?というレスポンスが殆どでそれ以降画像投稿者の書き込みはなかったが、小瓶とその紙袋に描かれたウジャト眼からバクラは目が離せなかった。

こんなろくでもないモンに使いやがって。

ウジャト自体に思い入れは無かったが何やら穢されているような気がしてバクラは苛立った。
しかし、同時に興味も湧いた。

バクラも頭の悪い人間ではない。こんな内容最初から信じていなかったし、どうとも思っていなかった。
だが予想だにしなかったシンボルの登場にバクラは少し考えを変える。
あらかじめ嘘だと思っていれば時間を少々無駄にしたと肩を竦めればすむことだし、万が一にも存在すれば享楽するマリクの姿が拝めるじゃねえか、と。
それに、バクラは媚薬を飲ませていい加減マリクに言わせたいことがあった。

出会ってから今日まで一度も耳にしたことがない自分に対しての愛の言葉を。








建物は実在した。
ネットで読んだ外観と相違なかったので、ひとまず中に入ることにする。
ドアノブは錆び木製の扉は所々腐り、開けると軋んだ音を立てた。
外からは分からなかったが中は微かに灯りがついていた。
店内は薄暗く床は骨董品の類で埋め尽くされ、壁に設置された棚には何かが液体に漬けられたガラス瓶が幾つも並んでいる。

外と比べると案外整った内装って書いてあった筈なんだが。
書き込みを思い出したバクラは埃まみれの空気に咳き込んだ。

「おや?」
ガチャガチャという音と共に店の奥から現れたのは老人だった。
その顔は黒い布で覆われていて男女の区別がつかない。

「これはまた若いお客さんだこと」
「オイ、この店に媚薬はあんのか?」

バクラはストレートに尋ねる。

「そんな風に言われたのは初めてだ」
「あ?」
「分かってて来たんじゃないのかい」

カウンターの向こう側で背の低い老人はボロボロの歯を剥き出しにして笑った。
不快感にバクラは細い眉を寄せる。

「…なら変な目の描いてある瓶もここで売ってんだな?」

先程棚を一通り見てみたが、画像のウジャト眼のラベル瓶は見当たらなかった。
バクラの質問に、老人が口元に浮かべていた不気味な笑みが一瞬にして消える。

「……誰から聞いたんだい?」
「さぁな」

焦りの色を含んだ声に噂は真実だという確信を得た。
なら早いとこ購入してこんな陰気臭い場所から退散するか。
その後のマリクとの情事を想像してしまい顔に出そうになるのを口元を歪めて堪えた。

老人は暫し口元に手を当てた後、身を翻し奥へと消えていった。
少しして戻ってくると骨と皮だけの手の中から小さな瓶をカウンターに置いた。
しかしそれはバクラが望んでいた物とは違いラベルには何も描かれておらず、問いただそうとすると老人は察したように喋り始める。

「あれは違う。あの商品はお客さんの望むものじゃないよ」
「どういうことだ」
「お客さんの言うそれは効果の低い、言わばまがい物だ。その程度の客だったから私もその程度の物を売ったんだろうね」

黄ばんだ歯を見せて老人は小瓶を爪でつつく。

「本当の媚薬として販売してるのはこれだけだよ。無論効果はまがい物の比じゃない」
「ハッ。客を品定めしてんのか」
「効果の高い物だからねぇ、こっちも選ばせてもらってるよ」

ヒヒヒと笑い声を上げながら摘み上げた小瓶はカウンター越しのバクラの前に差し出される。
コイツは信用に値しねぇな、と短い溜め息を吐くがこのまま手ぶらで帰るのもなんだか癪だった。

「…いいぜ。折角来たんだ、騙された上で買ってやるよ。幾らだ?」
「お代は要らないよ。お客さんの鋭い目が気に入った」
「オイ」
「怪しんでるねぇ。まぁお客さんの自由に使ってくれたらいいさ」


その代わりどれだけ楽しかったか今度聞かせておくれよ。
老人の言葉に、誰が律儀にそんなことするか、と眉をしかめながら出しかけた財布をしまう。
引き出しから紙袋を出そうとしてきたので制止したバクラは、小瓶を手に取ってジーンズのポケットに突っ込んだ。




用も済み踵を返し扉に手をかけたところで後ろから声がかかる。


「ああそうだ、使用には気をつけて。催淫効果は一口で十分だから」


「くれぐれも一度に全部飲ませないようにね」







扉を閉め終わるまで聞こえてきた薄気味悪い笑い声。
真夜中の冷え切った空気に肩が震えたが、先程までの篭った店内より余程心地よかった。
歩きながらポケットの膨らみに手を伸ばす。
取り出した瓶を月明かりに照らした。中で、何色なのか分からない液体がとぷんと揺れる。


タダほど恐いもんはねェけどなぁ。
見るからに怪しい店主だったとバクラは瓶を再度ジーンズの中にしまいながら思い出す。
このような信用性の低い物をはたしてマリクに使用していいものなのか。

日付はとうに変わっていたが、今日は土曜日で学校も休みだった。
ここ最近規則正しい生活をしていたので頭が上手く回転しない。


とりあえず帰って寝てからどうするか考えるか…。





欠伸を噛み殺したバクラは静まり返った住宅街を歩き家路についた。