消える心5
「バクラ?」
「悪ぃ、オレは、ただ」
汗ばんだ褐色の身体を抱き締めたまま、バクラは謝罪の言葉を口にしていた。
あの時、宿主獏良と交わした会話が蘇り頭から離れない。
あの日以降獏良からその話を振られることもなかったので、バクラはすっかり忘れていた。
もし。
もし仮に獏良の作った話が現実になったのなら、バクラは【殺して】しまったことになる。
「マリク」
「どうしたんだよ。変だぞ、今日のバクラ」
媚薬に思考を溶かされてくすくすと妖艶に笑うマリク。リビングで自慰に浸っていた時とは明らかに様子が違っていた。
「なあ、アイツはーーーあの男は、まだお前の中にいるんだよな」
マリクが十歳の誕生日を迎えたその日にマリクの苦痛と心の傷を素にこの世に生を受け、
残忍で猟奇的で、他者の苦しみを自らの快楽とする歪んだ嗜好を持ち、
マリクを『主人格』と呼び、従者リシドにより封印されながらも、六年間闇の中でマリクの全ての負の感情を喰らい続けてきた、
もう一人のマリク・イシュタール。
「…誰のことだ?」
ああ、と確信する。同時にこの瞬間、バクラの中で何かが音を立てて崩れていった。
もう、闇マリクと呼ばれたもう一人のマリクの人格は、マリクの中にいないのだと。
まるで初めから存在していなかったかのように、一体どこの誰のことなのかと訊ねてくるマリク。
「バクラ、泣いてるのか?」
『愛してる』の一言が聞きたくて入手した媚薬の効果で思考が朧げな間はまだいい。
だが、数時間後か、あるいは明日か。薬の効果が切れ意識がはっきりとした時、マリクは自我を保てるだろうか。
心のずっと奥底で繋がっていた唯一無二の存在が消えてしまったと気付いた時、きっとマリクは困惑し取り乱すだろう。もしかするとそれ以上の事態が起こり得るかもしれない。
そうなった場合何をしてやれる。
どう償えばいい。
「オレは、こんなつもりじゃなかった、ただお前に、オレのことを愛してるって言わせたくて、ただ、それだけだったんだ」
「変なの。ボクはいつだってお前のこと愛してるのに」
バクラの白い頬を涙が伝う。その熱い雫は、ぽたりとマリクの肩へ零れ落ちた。
背に回していた手でバクラをさすったマリクは一度体を離して、れる、と頬から目尻にかけてできた涙の筋を舐め取ってきた。
しょっぱいな、とマリクは笑った。
「よく分からないけどさ、さっきの続き、しようよ」
「マリク」
「ほら、ボクのペニス、また大きくなってるの分かるだろ…?」
ハァ、とねっとりした溜め息を耳に吹きかけてきたマリクは熱くなったモノを自ら握って見せつけてくる。
媚薬の効果で何度達しているのか分からないそれは、マリクの若さも相まってまだ勃ち上がる力があるようだった。
悦に満ちた淫靡な視線を向けたまま肩から胸、腹と撫でてきてバクラの股間のジッパーへと辿り着く。
しかしピクリとも身動ぎしないバクラに、マリクはムッとして唇を尖らせた。
「なんだよ!少しくらいヤる気見せたっていいだろっ」
「マリク…」
「〜〜もういいっ、ボクの勝手にするからな!」
反応を見せないバクラの態度にキッと目尻をつり上がらせ、ジッパーに指をかけ勢いよく下ろしてきた。
空いた隙間から覗くトランクスに形の良い鼻が近付いてくる。
すん、と股間のニオイを嗅がれた。
「はあ…たまんない…」
鼻を擦り付けたまま性急に膝立ちのバクラのジーンズのボタンを外しずり下ろしていくマリク。
腰に抱き付いて股間に顔をぐりぐりとうずめ、生地越しのバクラの雄の匂いを深く吸い込み堪能する。
濡れたまま仕舞ったペニスのせいでトランクスの生地の一部が濃くなっていた。
「はぁっはむっ…ん…ん…んぐ」
夢中になって顔を擦り付けていたマリクはゴムの部分を歯で噛んでトランクスを下ろし、現れたペニスに飛びついてきた。
すぐさま口を開けてじゅぽじゅぽと水音を立ててしゃぶり始める。
生温かい咥内で性器を刺激されるバクラだったが、興奮し顔を赤らめるマリクとは反対にその表情は悄然としていた。
いつもなら欲望のまま行為に溺れているところだが、今バクラの頭の中を支配しているのは、あの日、穏やかな夕暮れ前、洗濯物を畳みながら獏良が紡いだ言葉だった。
――闇には消えてほしくない
―――心の崩壊
――――マリクを守るべくして生まれた存在
言葉がばらばらに蘇って脳を圧迫してくる。
その間にもマリクは一心不乱にフェラチオをしていた。
マリクに触れられればいつもすぐに勃起するペニスは、今はどれだけ愛撫されても首を擡げてこない。
しばらく舐め回し吸い付くことに没頭していたマリクだったが、おもむろに口を離し、何の反応もないバクラに気にする素振りすら見せずに床に押し倒してきた。
十六歳ながら完璧のプロポーションの肉体がバクラに跨り腰を下ろそうとするが、勃ち上がっていない性器でアナルを突き刺すことは出来ない。
興奮し荒い呼吸をするマリクは秘部に柔らかいペニスを押し付けるかたちでのし掛かり、まるで挿入しているかのようにグラインドを開始させた。
「あっあっあっ…バクラっ…!」
静かな部屋に欲を貪る喘ぎ声が響く。
バクラの腹に手をついてぎこちなく腰を動かす痩躯は、汗と精液で艶めいていた。
身体を微妙にずらしながら、後孔がバクラの萎えたペニスと擦れる感覚に甘い声を上げる。
「はぁっ気持ちい、バクラっ気持ちいいよお…!あっあー!うぅぅうう〜っ」
胸板に倒れ込んで顔を擦り付けてくるマリクは腰だけを前後に揺すり、声を大にして喘ぐ。
快感に溢れるマリクの涙が、唾液が、バクラの服に染み込んでいく。
自身の上で狂悦し快楽に浸る恋人を、バクラは茫然と見つめていた。
ゆるゆると伸ばした手はマリクの汗ばんだ肌に触れる直前で止まってしまう。何度伸ばしても、あと少しのところで金縛りにあったかのように動かすことが出来ず止まってしまう。
「クソッ……クソがッ…!」
視界が歪む。
マリクに触れるのを諦めた手で目に溜まった涙を拭うが、次々と溢れ出てきてしまう。
クルエルナ村地下での惨劇を目の当たりにしたあの時も、盗賊の王を名乗り一人きりで生きてきた間も、現世で獏良了の体に宿ってからも。
涙など一度も流したことは無かったのに。
「んっんっんっ愛してるっあ、バクラっ好き、んんっ好き、あはッ、大好きっい」
熱かった。涙に覆われた眼球周りが、まともに働かない脳が、生きる為に動き続ける心臓が。
もう二度と【薬を飲む前のマリク】を取り戻せないのだと、想像しただけで、全身が焼けるように熱かった。
特に心が。毒薬を垂らされているかのように、心の端の方から、ぶちぶち、ぶしゅぶしゅと、溶けていくように熱かった。
「はぁッはぁっなあバクラっキスっキスしたいっあむっんぷッ」
浅い呼吸を繰り返しながら、頬を柔らかく包んで唇を重ねてくるマリク。
動いているせいで唇が上手く重なり合わないがそれすらも楽しんでいるのか、何度も顔の角度を変え唇を舐めてきた。
尖らせたぬるついた舌で上下の唇の隙間をノックされ、バクラは閉じていた唇をつられて開けた。その瞬間ぬるりと入り込んできた熱くぬめった長い舌。
「んにゅ、ぷむ、んっむっんん〜っ…はぷっんちゅ」
ぬぽっちゅぽっちゅっちゅっちゅうっ
余程気持ち良いのかマリクはバクラの舌を吸いながらぐちゃぐちゃと腰を揺らす。
口内に流れ込んでくるとろりとした唾液は噎せ返りそうなほど甘かった。
「ぷはっはあッはあっああっんんっバクラっボクはっ」
深いキスを止めたマリクがぐちゅぐちゅと腰を動かして喘ぎながらバクラを見下ろしてくる。
「ボクはッお前がいればいいからっ」
目尻から流れ落ちた涙が肌を伝って耳の中に入ってきた。ぞぷ、と不快な音がした。
「他には何もいらないっバクラだけっあっ、あふッ、バクラだけが好きっバクラだけ愛してるっ」
気付けばバクラは嗚咽の声を漏らしていた。呼吸をするのも苦しかった。
「だからっずっと一緒にいよう、んんっ、お前とっボクのっ二人だけで生きていこうっ」
バクラは片方の掌で両目を覆った。掌が涙で濡れた。肩の震えが止まらなかった。
浅はかだった。まさかこんな事になってしまうだなんて、誰が想像出来ただろうか。
閉ざした視界の中、けらけらとマリクが笑った。
「愛してるよ、バクラ」
バクラの心の一部が完全に溶け落ちた。
マリクの精液が、腹部にとぷりと吐き出される。
ごめんなマリク。そう言って抱き締めてやりたかったのに、溢れ出てくる涙のせいで声が出せなかった。