パンドラの箱・前編







―ずっと大切にさせて下さい―

愛の言葉と共に男は細い手を握った。
女は一瞬困惑した表情を見せたが、強く握ってくる大きな手と真っ直ぐな男の瞳を見て、ありがとうございます、微笑んだ。






キッチンの窓から入り込んでくる朝日はシンクに反射される。
コンロには味噌汁の入った片手鍋とカボチャとインゲンの煮物の鍋。
葱がまな板の上でリズム良く切られ味噌汁の中へ。くつくつと煮立つ前に火を止め、二つの椀にそそがれる。
グリルからは魚の焼きあがった香ばしい匂い。
煮物用の小鉢も、炊き上がったばかりの白米を入れる茶碗も、二つずつ。

シャツのボタンを留めていた男に声をかけ、二人してテーブルに着く。
「そう…今日は遅くなるんですね」
心底申し訳なさそうな男に、マリクは卵焼きを切っていた箸の手を止めゆったりと微笑む。
「そんな、気にしないでください。夕飯は作っておきましょうか?」

ありがとう、君の料理が一番なんだ
向かい合って座る男に嬉しそうにそう言われれば眉尻を下げるしかなかった。



ビジネスバッグを持った男を玄関まで見送ることがマリクの平日の日課。
「いってらっしゃい、あなた」











「はぁッ…ん……あぁんっ…」
夫が仕事に出ている間だけが唯一マリクが気を緩められる安息の時。


新婚生活二ヶ月目。
あの日の夜のプロポーズの後、あっという間に式が行われ、二人でマンションに住むことになった。

夫とは船上で行われたパーティで知り合った。
そこでマリクに一目惚れしてしまったようで、その後何度も食事に誘われついにプロポーズをされたのだ。
互いに大企業の成功者である親の子に生まれてきたので、結婚となれば裕福な生活が保証されていたのだが。

何も要らないんです
不動産屋を連れてきた父の前でマリクは言った。


パイプは繋いでおかねばな
男に向けられていた好意に気付き始めた頃父に相談した際、嬉しそうにワインを開け上機嫌に言った父にマリクは暗に「受け入れろ」と言われたのだと気付いた。
幼い頃からマリクは父が好きで心から憧れていた。
父を喜ばせてあげたい。
その一心でマリクはプロポーズを受け入れた。

マリクの言った「何も要らない」というのは、一等地も、財産も、煌びやかな生活も、そして出来ることなら夫も。
何もかも欲しくないという意味だった。
無論猛反対を受けたがマリクの必死の申し出を受け入れてくれた夫によって父は悔しげに、だが諦めてくれた。

一般的なマンションを住居とし、夫は身分を隠した上で中小企業へ就職。
マリクは専業主婦となった。
だが申し出を受け入れた時、本当に愛されているんだ、と喜びは欠片も感じずただ絶望だけがマリクを襲った。
夫はとても優しい。
夕日のようにやわらかく包み込む暖かい優しさを持っていた彼は、結婚してから更に自分を大切にしてくれた。
それは女としてとても喜ばしいことだったが、マリクは日々目に見えない黒い何かが心に鬱積していくのを恐れた。

(私は、汚い、酷く汚い、汚い人間)

夫を嫌っているわけではない。
こんな優しい人間などそうそう出会えないだろう。
けれど、マリクは。


(汚い…私は汚い!あんなにも心優しい人がいるのにッ、私が恐がっていると思って手を出さないでいてくれてるのに…ッ私は、わたしはっ)




優しい愛情なんて要らない
酷く熱く犯されたい
貪り尽くされたい
灼熱の炎に焼かれながら交わって
どこまでも、堕ちたい




それがマリクの本心だった。
令嬢だからといって心まで清楚なハズがない!と何度叫びたかったか。
父の為に、と自我を殺してきていたが既に限界が近付いていた。


午前中に家事を済ませ後は夫の帰宅まで自慰に耽る。
それがマリクのもう一つの日課だった。








服の上から手に収まりきらない乳房をぐにゅぐにゅと揉みしだき、甘い声を漏らす。
乳頭部分を搾るように揉んでいるとブラの下で次第に硬さを増してくる乳首。
床に座り込みソファに頭を擦り付けていたマリクは、傍らに置いていた、自慰を行う前にクローゼットの奥から引っ張り出してきていた玩具へと手を伸ばした。
「はぁ、は、ん…」

週に一度の頻度でマリクは狂ったように玩具を買い集めていた。
はじめは抵抗とそちらの世界に踏み込むことに迷っていたが、思い切って、見ていた通販雑誌の中でも一番手頃な物を購入してしまってからは、もう駄目だった。
ダンボールの中、小ぶりなローターと共に送付された一冊のアダルト雑誌。

この時からマリクは、生まれて初めて通帳から金を引き出して使用するようになった。

一個から二個、二個から三個。
携帯で注文のボタンを押す度に自分が恐ろしくなるマリクだったが、届いた商品で熱く火照り疼く身体がオーガズムに達した時の激しい快感を思い出すと、クリックする親指は止まらなかった。

「んぶ…あふ、む…」
表面に柔らかいイボが無数についたピンク色のバイブを口腔に招き、長い舌をいやらしく絡ませる。
子宮口を容易に突く長さのバイブは、マリクのぬめった喉奥に簡単に届く。
吐くか吐かないか、ギリギリの所まで喉を犯すことを楽しむ。
うぐ、と餌付き涙目になってしまうが、マリクは興奮しきった表情でゆっくりと抜き差しを繰り返し、敏感な喉の肉を擦る動作に酔いしれた。
片手でたくし上げたスカート。膝を立て、大きく左右に開いたすらりとした脚の中心では、しっとりとした染みの作られたショーツが勃起した肉芽と秘部を隠していた。

(こんな、こんな風にされたい…)
粘液を溢れさす膣を感じながらたゆたう脳裏で思う。
マリクは未だ女の肉体をこじ開けられたことのない処女で、男性器という物を目にしたことは現実では一度もなかった。
それ故、己の底知れない欲望を満たすことが可能なのは猛獣か、自分自身くらいではないのか、と常日頃思っていた。
優しい夫では到底その役を担えそうにない、と。

目を細め男性器で言うカリ部分をれるれると舐めながら、人差し指でショーツの上から膣穴に指を押し込むと指先から伝わってくる生暖かい感触。
濃い愛液はべっとりとショーツに染みていて、マリクは下着の上からクリトリスを擦りながら苦笑を漏らした。

(はぁ、きもち、い)
二本の指でぷっくり肥大したクリトリスをぎこちなく摘まみ上げた時だった。
図ったかのようにマンションのインターホンが鳴り、褐色の細い肩は驚きにびくっと跳ね上がる。

昼を少し回った時間。
こんな時間に来るのは通販の宅配便だ、と乱れていた服を直したマリクは印鑑と財布を片手に玄関へと向かった。
額にはうっすらと汗が滲み淡い紫色の目には涙も浮かんでいたが、どうせ配送員にじっくり顔を見られることもないだろうからと気にせずドアを開けたのだった。

「はい」

「…お届け物です」

「え、あの」

不思議な人だ、とマリクは思った。
胸の位置まであるだろう銀とも白とも言える長髪を後ろで一纏めに結び、帽子を目深に被った配送員。
渡してもらわなければならない荷物はしっかりと脇に抱えられている。
新人だろうか。こんなことは初めてで、どう声をかけていいのか分からずマリクは戸惑った。

当惑する内に配送員が片手で押さえていたドアから手を離し玄関に入ってくる。
流石にこれにはマリクも目を丸くした。
一段高い廊下に立っている自分へ近付いてくる男に、思わず足を後ろに下げてしまう。

「あの、ハンコ、を」

「なぁ奥さん」

男は二重のドアロックをかけスニーカーを脱いだ。




「抱いてやるよ」




マリクの手から零れた印鑑が落下の勢いで玄関へ転がり落ちていった。